昭和五十七年三月二十三日 朝の御理解
御理解第九十四節
信者に不同の扱いをすな。物を余計に持ってくると、それを大切にするような事ではならぬぞ。信心の篤いのが真の信者じゃ。
取次者として、心得ていなければならないことを教えておられると思うのですが、これは教師信者を問わず、このおかげを頂いていくためのいわば心得として此処のところをもう少し深く頂かにゃならんと思うですね。
信心の手篤いのが真の信者じゃとこうある。信心の手篤いというのが真の信者というのはどういうことをいうのであろう。取次者には、不同の扱いをすなと教えておられるけれども、天地の親神様は、やはりまあ、確かに不同の扱いをなさるようですね。いわば信心が手篤い者にはおかげを沢山下さるでしょうね。信心の薄い者にはおかげもやっぱり薄いでしょうね。
そういうところからま、そういう見地で頂かしてもらうと、私共のいうならば、真を信心の手篤いのが真の信者じゃといわれるのはね、いわゆる真心を真に現してこそ、初めて手篤い、又、真の信者ということになるのじゃないでしょうかね。
ま、ここん所を信者の側の方が頂くと、ははあ、お供えなんか多かったちゃ少なかったちゃよかばのと。
真の真心さえすりゃ、真心を手篤うさえ拝んでさえ、一生懸命拝めさえ、手篤いように、間違えるような感じが致しますね。これは教師信者を問わず、そしてまああら、実際はあのう、間違いましょうけれども、神様は一応におかげ下さってあるんですけども、受け物が悪ければおかげがもると、おっしゃるようにですね。
だから真の信心をさせて頂く人はおかげを沢山頂いておる。信心の薄い人はやっぱおかげも薄いというのは、実際はもらしておらしておるんですけれども、ならだから、見方によると、神様もやはり不同の扱いをなさるという風にまあも頂けんことはないわけですよね。
昨日萩の市川さんが御礼参拝をして見えて、それこそ昨日改まって御礼のお届けでしたが、毎年昨日ですね、三月の二十二日ですか、が、私が胃ガンで助からないところを、も、これは間違いなく合楽の信心によって助かったと確信しておられますから、毎年その日がめぐって参りますと、改まって御礼のお届けがございます。久富先生と友達でしたから、もう七十八ですよ、今年はね。それもう十一年間生き延びのおかげを頂いております。同じね、総代さん仲間で同じ病状で同じ病院に入院して手術をするということになったんです。だから手術をするという腹で、同時の、あ、椛目じゃないもうこちらへ移ってからでしたか、帰りに寄られて、そしてこんな風でレントゲンに現れておる、その総代友達の誰々も私もその写真がレントゲンに写っておるガンの具合がもうほとんど同じというのですね。で、一人の総代さんはそのまま入院された。市川さんはそういうようなおかげを・・・
あのう頂いた帰りにその寄られてお届けをされたときに、”神様に一心に縋ればもう心配はいらん。”という意味の御理解を頂いた。私は確か安泰ということを頂いたと思います。だからしっかり信心をしておかげを受けて、だから腹を決められてもう手術することを辞められたのですけれどもね、おかげを頂いて、勿論熱心に御信心も出来ましたが、もう一人の総代さんは無事手術も出来ましたけれども、丁度一年後になくなられました。
市川さんはますます元気になられて、昨日で丁度○十一年になるとして、一年毎にその命を頂いた喜びの日、記念日として御礼参拝がありますね。それこそただおかげを頂いた、というだけでなくて、おそらく市川さんとしてはつういっぱい、一生懸命のお供えであろうというお供えを整えて、本当に十一年間の生き延びのおかげを本当に芯から御礼を申されます。
そいで私はそれを神様にお届けをさしてもらいよりましたら、”力”という字を頂いて次に”口”という字を頂いた。”加”という字ですね。加わるという字です。ほほう本当にあのう御道の信心は御礼御礼でおかげが頂けると。
本当に御礼さえ出来れば願うことももう御礼だけでおかげが頂けるんだというような、意味の事が特に甘木の信心なんかは、もう御礼の信心といわれておりましたから、その御礼を追求しておいでられたんですね。甘木は。
だからただ、御礼さえ云うときゃええ、お礼参りさえしときゃええ、だけではいかんごたるですばい。はい。その御礼と云うのは本当におかげを実感しなければ駄目なんです。もうこればっかりは、合楽のおかげで今日の私があると、こう市川さんはそれを思いこんでおられるわけですね。丁度そんな風に同じ症状の方が一人では病院で手術をする、自分はもう思いきって手術をせんでおかげを頂いたと云うそういうあれもあるし、又当時の合楽の比礼によくされたということも、これはもう本当に実感しておられる。
だから御礼を申し上げるというても、本当に今日もおかげ頂いて有り難うございますち、云うばってん本当にその御礼の実感です。おかげを受けておるな、というならば合楽なしには、今日の自分がないというような実感がいよいよつのってくるときに、それはどうかせずにはおられない、ということになってくるんじゃ。いわゆる真心が真によって現される時に、私はそういう信心をいわゆる信心が手篤い、云うならば、真の信者じゃ、ということが云えると思うですね。
だから、市川さんいよいよあなた、又元気なおかげを頂きなさいますばい。今日の此の健康の上に又、神様が加えて下さるようにおかげを下さることでしょうと云うてまあ申しました。
力を頂くね、力が加わっていく、信心の徳が加わっていく、それはおかげをおかげと実感して、なら実感しておかげと思うとりますでなく、実感したものが真心がしかも真で現されるときに、神様はもう次のおかげを準備しておられると云う気が致しますね。
そりゃぁね、合楽で本当に開けんはずの道が開けたとか、助からんはずの者が助かったとか、一年二年のね、そのやっぱ助かった記念のごたるふうの気持ちで、それこそお赤飯どん炊いて御礼参拝してくる人も何人もありますよ。ところが次第に十年十五年になってくると、もうなくなってくる。もう間違いなし、合楽のおかげで助かっとると分かっておっても、人間という者は、こう云うのが、いわゆる真の真心じゃないということになってくるんじゃないでしょうか。
それがいよいよますます年を取るに従って、つのってくる。もう本当に合楽のおかげで十一年間という間、いうならば生き延びのおかげを頂いておるという実感は、もうますますつのるばかりね。そういう信心を私、信心が手篤いというのじゃないかとね。
真心。思うたことをそれが真で表される。してみるとです、なら、そういうおかげの実感と同時にお供えが多ければ、こりゃ神様が不同の扱いをするとかのように、おかげを下さる事が間違いないということが分かります。
ただお供えすりゃ、どうこうち云う事じゃありません。おかげの実感です、まずは。おかげをおかげと実感するところから、それが御礼の形になって表される時に、そう云うのをいわば手篤い信者じゃと。いわゆる真の信者。
だから、そこに、真のおかげが絶対ともなう。云うならば、もう七十八にもなられる、その市川さんに、いよいよ健康のおかげを加えて下さるような働きが、これからは又、あるぞということではなかったか、という風に思うんです。ね。真心はその辺のところをね。いつも心の中に、まあ心がけとしてね、知っておかんとね、そのおかげと思うても、それが本当に実感になって現れてくる、その実感が云うなら、形によって表されるといったような、次のいわば甘木で云われた御礼の信心と云うのは、おそらく甘木の先生はそのおかげの実感をおっしゃったんだと思いますね。
だからそのおかげの実感を形に、御礼に表していけよと教えられたんだという風に私は思います。お互いいよいよ信心の手篤い信者ね、それを真の信者とおっっしゃるんだから、いよいよ信心の手篤い信心を目指さなければならん。為にはです、いよいよおかげをおかげと実感しなければいけない。
昨日は今、ヨーロッパ旅行中の石田先生から、七、八枚くらいいっぺんに絵はがきであちらの模様を、もう昨日十二時から御霊様の、をせんなりませんから丁度十一時半頃でてまいりましたら、あのう、お供えの準備を正教先生と、千恵子先生と佐田恒行先生とそれに渕上先生も出てきましたが、ま、しばらくの間、話した事でしたけれど、今だ石田先生が帰って来なさったならば、私が合楽理念が素晴らしい、金光教の信心が素晴らしいと云うよりも、おかげを受けて分かった御信者さんが素晴らしい素晴らしいと云うて、云った方が皆が実感がある。私が云うと何かこう、親先生は特別とか、何か我田引水に、又は聞こえたりするような事があるから、此処でおかげを受けた人が云わなければねと云う。
もうとにかく私が死んだ後に、私が云いよった事がほんなこつと云って、皆が思う位じゃないじゃろうか。というてま、話した。ですから今だ石田先生あちらから帰って来たら何かひとつ書いてもらおう。脚本なら・・・とにかく合楽をかく信ずる、かく有り難く頂いておると云うことを、ようなことを昨日の十枚の絵はがきもそりゃもう、一枚一枚素晴らしい事が書いてあるんです。
もういよいよあらゆるあちらの宗教をまあ、見たり研究したりなさって、もういよいよ合楽理念の素晴らし、いや金光教の素晴らしいこと。いつの間にどうしてこう云うことが表現出来たり、こう云うことが分かっておられただろうか、と思うくらいに皆と話したことでした。
結局もう、信心にその事、おかげというのじゃなくて、もうとにかく、合楽の信心が分かりたい、金光教の信心が分かりたいという一心と勉強で、こんなとても十年二十年信心したっちゃ、こういう表現はでけんといったような表現で書いておられます。
例えば天照、天照皇大神宮が日本の頭領なら、天地金乃神様、合楽でいわれてる天地金乃神は、もう世界中の神、昨日の御理解をまるっきり裏付けするような表現の素晴らしい表現で書いてありますですね。あらゆる宗教が中途半端である、というような事ももうその自分が実際当たって、研究してみて、それを実感していよいよ、合楽理念の有り難いこと、素晴らしいことが感じますということ、内容のハガキです。
ですから、お互いが本当に本気で、やはりあの、合楽理念が本当に親先生がいうように素晴らしいかどうかを、実験実証だけで分かっていくんじゃなくて、実際にやはり、人にでも説明が出来るようなね、昨日元の宮田先生、今藤井という先生ですが、藤井家に今度養子にいかれました。先生が昨日の朝、御理解を頂いて、そのま、見事なまとめを昨日は書いていませんでしたけれど、感じと事をちょっと話しておりましたが、そういう藤井先生、話をあなたが本部で、今、本部でも、なかなかこの教学者として、皆からもま、認めておられる先生です。
今度学院の教学を担当されるということが、あの、教学者であるあんたが、合楽の信心を今日あんたが此処で、昨日の御理解ですね、の、ような説明が本部で堂々と出来るようになったら素晴らしいばってんの。此処では発表が出けても、本部ではなかなか発表が出けない。本部でこれを堂々とそれこそ、教学を交えて話されたら、素晴らしかろの、というてま、申しましたことでした。
けれどもそういう合楽の事を分かった人が本当に堂々と発表できるようなね、人がやっぱ現れなければ、私が素晴らしい素晴らしいというとるだけでは、だめなんですよね。だから昨日先生方と話した事じゃったけれども、今度石田先生が帰って来なさったらね、本当にこう合楽を浮き彫りにするような、又自分の過去に於いて、研究されたり、信心なさったり、そういう信心を医学者としての立場からね、合楽理念を語って頂いたらどうじゃろか。そんなもんを書いてもらったらどうだろうかと、ま、申しました事でしたけれどもね、そのやはり、根本になるものは、結局ね、本当に合楽理念による、おかげの実感なんです。素晴らしい素晴らしいというだけじゃなくてね、そのおかげの実感がね、その信心が形に表されるところまで、お互いの信心が進められていかなきゃならんですね。
そこに信心の手篤い、いわゆる真の信者としての、おかげも下さる。神様はまあ一緒に下さってあるんだけれども、そういうおかげの実感に対する御礼。そこにいわゆる加わるおかげ、次のいうなら、願わんでも、頼まんでも、頂けるおかげの道も又、自ずと頂けてくるということになります。 どうぞ